儀  仗 10

 昼下がりの図書寮。賀茂保憲は文机の上で巻物を広げていた。先日の黒衣とは異なり、規則に則った衣をまとい背を正して巻き物に目を落としていた。そして文机を挟んだ向かい側には、足を投げ出して座る者が居た。こちらは僅かに茶色がかった汚れた衣を無造作にまとっている。それにその腰には相応しくないような太刀を佩いていた。

 保憲は目を書面に落としたまま、先日の少年が去った後のことを話していた。

 「着替えもせず、黒衣のまま清涼殿に上がる羽目に陥ったが、事象の処理の早さ故咎められずに済んだ。でも本当に参ったよ。」

 「そうか。して、先日のあれは殿上人か?」

 保憲の前に居た者は、先日朱雀門で舞いを舞っていた少年だった。今は被衣を被っておらず、烏帽子を着用していた。もとどりで縛りきれていない髪がうなじの辺りで遊んでいたが、気にする様子もなく保憲に説明を求める。

 博雅の身上やらをかいつまんで説明すると、その説明の最後につい最近戻ってきた事を付け加えた。博雅は殿上して程無く体調を崩し、更に無理を重ねた為、一度えにしのある寺に身を置き、つい最近静養を終えて戻ってきたばかりだ。と――。

 少年はさしたる興味も示さず、適当な相槌を打ってその説明を聞いていた。

 「どうにかならないか?恐らく陰明門での人よりも厄介そうだ。あ、あの時は有難うございました。」

 陰明門で重信の気を己から外したのが保憲だと分かっていた少年は、まだ礼を述べていないことに気が付き、姿勢を正して保憲に頭を下げた。

 「よもやあの時間に鎮めの舞いを見られるとは思わなかっただろうよ。災難だったな。」

 「正確には舞いではなく踊りなのだが。彼に落とした水晶の鈴を拾われたから、まだ災難は去ってはおらぬのだがな。」

 力が抜けるような溜息をつき、少年はそのままごちっと文机に額をぶつける。保憲はその項を一瞥いちべつし、巻き物から目を離した。そして少年に問う。

 「そんなにあそこの気の乱れはひどかったのか?」

 舞いの基本動作は水平だが、踊りの基本動作は垂直だ。少年が舞いではなく踊りといったのは、身に付けている鈴の音をより大きく出す為だということを暗に語っており、即ちそれは陰明門の周辺の気の乱れが著しいものであったことを意味する。場における気の乱れと鎮め・浄化の音は正比例する。つまり、気の乱れが著しい程鎮めの音が大きくなる。だから保憲は前述のような問いをした。

 「踊りながら地に印を刻んでいった。しかし直ぐに効を果たしたから、大事無いよ。それよりも、あの殿上人とは知り合いのようだが、本当にどうにかならぬか?」

 困惑した顔で少年は言うが、保憲はにこやかに微笑んで一言無情に「無理。」と言った。その言葉に含まれる感情はどこか楽しそうで、少年の機嫌を悪くするのに十分だった。少年が片膝を立てて佩いていた太刀の鯉口を親指で僅かばかり上げてみせる。

 「その古神宝は儀仗だろう?抜け殻なんぞ怖くはない。」

 保憲はひらひらっと手を上下に動かす。しかし少年は顔色一つ変えずに、その太刀を半分程抜いてみせた。

 「れっきとした伊勢のものだよ。そして赤鰯あかいわしだった物を交換した。それでも儀仗とのたもうか?」

 神社に祀られている神々の為に奉納された様々な宝物のことを、神宝と呼ぶ。神宝は、神社を造り替える遷宮や神事の時に合わせて新しく作られ、古いものと入れ替えられる。古神宝とは、新たな神宝を奉納した時に、神殿から下げられた古い神宝のことだ。普通はそのまま社宝となったり、埋められたりしてしまうのだが、中には人の手に渡ってしまうこともある。どういった経緯か判らぬが、少年が手にしている太刀は伊勢神宮の古神宝だった。

 鏡と見間違う程に磨き上げられた霜剣が、保憲の目の前にあった。彼の背を冷たい水のようなものがつぅーっと滑り降りてゆく。それと同時に彼の表情から笑みが消え、すっと真顔に戻ってゆく。目の前の太刀は元を辿れば古神宝、しかも伊勢神宮にあったものだ。そして恐らく錆び付いて使い物にならなくなった刃を霜剣に付け替えた。今は下げられて抜け殻と化しているとはいえ、一度は神の許にあったものだ。その力の残滓が霜剣と結び付いていると考えられなくもない。ましてや刃を付け替えられた時から、既にそれは儀仗ではないのだから真顔にならざるを得ないだろう。

 そんな保憲の変化を見、少年は太刀を納めて小首を少し傾けて微笑む。

 「元は儀仗だ。どんなに刃が強かろうと所詮気休め程度に過ぎぬ。」

 「古神宝を、霜剣を、所詮ねぇ。気休めねぇ。」

 武器として使用する為に作られた物ではないのだから、実際に使用するに当たっては耐久性など物理的に難がある。少年はそう言いたかったのだが、一度限り且つ使い方次第によってはそれを天変地異も引き起こせる代物とすることも可能だと理解している保憲には、少年の言葉が持っている物の価値の分からぬ者が吐く言葉のように虚しく感じられた。しかも付け替えられたのはただの刃ではなく、心胆をぞっとさせる非常に鋭利な剣、つまり霜剣だ。

 しかし、少年が言った次の言葉により、それは綺麗に払拭された。

 「これはこれは珍しい。陰陽師が呪に絡め取られるとは。」

 からかいの意を込めて、少年が屈託なく笑う。彼は自分の手の中にある古神宝は、鞘に納まっているからこそ価値があるのだと、従って中に刃などなくても何ら問題ないのだと理解した上で発言していた。

 「ではそろそろ薬圃に行かなければな。本日は宿直故、何か御所望の品などありましょうか?」

 少年は立ち上がると下に敷いていた被衣を烏帽子の上から被ると、鼻の頭の辺りまで引っ張った。これには理由があるのだが、それはまた別の話である。

 「ではこれを。」

 保憲が少年に懐から折りたたんだ紙を差し出す。それを受け取ると、少年はその場で紙を開いて内容を確認する。

 「あ!?また誰か陰萎なのかよ。あと、何でこんなものを頼むかなぁ。典薬寮に頼めよ、全く!」

 自分で言っておきながら、文句をぶちまける少年。保憲は苦笑いをしながら言った。

 「だから典薬寮の人に頼んでおるではないか。それに、春機発動前のお子様がそういった言葉を発するんじゃあない。ついでに今回はご婦人だよ。で、後者のそれを飲むのは子供だ。」

 「専門用語を使うて何が悪い?あと、正規の手順で頼めと言うておるのだが!?」

 そう噛み付く少年に対し、色々と事情があってねぇ。と保憲は他人事のように付け加える。尤も紙を手渡した時から他人事なのだが。

 「分かった。どうにかする。また助力を請うやもしらん。その時は頼む。では。」

 立ち上がり、保憲に一礼すると少年は薬圃へと足を向けた。保憲は去ってゆく背に気を付けて。と声を掛けると再び書物に目を落としたのだった。

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